忘れ草と忍ぶ草


「昔 忍ぶの 忘れ草」とは、胡蝶の一節ですが、その説明に(謡本)「軒に忘れ草が生えて昔を忍ぶ感がある」と書かれている。また、野上豊一郎の謡曲の本の説明には、「昔を忍ぶ忍ぶ草、一名また忘れ草。今は忘れられている 旧跡となっている意。」となっている。意味の方はともかく、シノブと忘れ草が同じものとは思えず調べてみた。


[シノブ、シノブ草]
ノキシノブ
ノキシノブ
忍ぶは、シダ類のシノブ(シノブ科)、ノキシノブ(ウラボシ科)などのこと。水がなくなっても耐え忍ぶ草という事で付いた名。ノキシノブは、昔の古びたわらぶき屋根に生えていたり樹皮や岩等に着生するシダ植物で、しだ草と詠まれていることも。

「君しのぶ 草にやつるる 古里は 松虫の音ぞ 悲しかりける」(古今集、詠み人知らず)

では、君をしのぶ、しのぶ草、君を待つと松虫の掛詞で、わびしい古里を読んでいます。また、シノブの根を水苔や木炭などを芯にして形作り(ついでに風鈴もつけたりして)軒に下げるツリシノブは夏の風物詩でした。古今集の和歌
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに みだれむと思う 我ならなくに」河原左大臣
に出てくる、忍ぶもじずりとは、忍摺り、信夫摺りとも言い、シノブの葉や茎を形をそのままに布において石で布にこすりつけて布を染める染め方です。シノブの葉で染まる緑は、他の葉で染めた緑に比べ、酵素で変化しにくく色が長く保たれたので喜ばれ、今の福島県信夫のあたりの名産物だったようです。
[ワスレグサ、シノブ草]
ヤブカンゾウ
ヤブカンゾウ
忘れ草は、あまりの美しさにこの世の憂さを忘れる草という中国の話がもとで、萱草または忘憂草のこと。萱草は、「クワンゾウ」と読まれていたようだが今は、甘草(マメ科)と区別出来なくなって混同されることが多くなった。ヤブカンゾウ(ユリ科)がその草だが、仲間には、ニッコウキスゲ、ユウスゲ、ヒメカンゾウ(ワスレグサ属)などの夏の山によく見る花が多い。

「わすれぐさ(萱草) わが紐に付く 香具山の ふ(古)りにし里を 忘れむがため」万葉集

と、大伴旅人が任地で、ワスレグサを衣服につけているのは古里を忘れよう思うからだと歌った歌にもあるように、万葉の頃は身につけると憂いを忘れると言われたらしい。ところが、室町の頃になると、忘れようにも忘れられない、かえってしのばれると言うような意味に転じて来て、忘れ草転じて偲ぶ草になったらしい。


「わが宿は 甍しだ草 生いたれど 恋忘れ草見るに いまだ生ひず」(万葉集 柿本人麻呂)

では屋根にシノブは生えているが恋を忘れる忘れ草は生えていないと、きちんと区別されているが、この「胡蝶」では、「軒の桧皮も苔むして。」「昔しのぶのわすれ草。」となっていることを考えると、忘れ草が偲ぶ草になり偲ぶ草が忍ぶ草になり、しのぶへと言葉が混乱して使われるようになったのでしょう。

ノカンゾウ
ノカンゾウ


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